人工知能に仕事を奪われるかもしれないという風潮
「人工知能に仕事を奪われる。」最近ではよくこのフレーズを見聞きするようになった。多くの職業の分野で人工知能による代替が可能になり、人の仕事が減ってしまうかもしれないという懸念である。企業体が営利目的で事業活動を行っている以上、コスト削減や業務効率を考えるのは至極当然のことである。結果として、正確に業務を遂行する人工知能が活躍し、これまで企業に雇用されていた労働者の役割は変化せざるえないということであろう。そこで登場する議論は人工知能に指示を与える側の人材になろう!とか、高度なITプロフェッショナルになるためにプログラミングなどのIT技術を学ぼうという意見、人工知能に代替できないような人ならではの仕事をしようという意見など様々である。私はこれらの意見を否定するつもりは毛頭ない。
しかし、もっと根本的な仕事観や人生観について国民的な議論をするべきではないか、そんなことを思ってしまう。
労働者になることがゴールで良いのだろうか?
私が学生時代を過ごした時、そして現在でも、義務教育過程や高等教育でも教育の中心は、進学する、就職できるが目標とされる。最終学歴が高校卒業、大学/大学院卒業にしても企業に就職し、いわゆる労働者になるための訓練の過程であろう。もちろん、例外はある。実家が商店や飲食店、職人のような家庭の子どもは自ずと跡取りのために修業に出て、やがて家業を継ぐ。しかし、多くの学生は(私もそうであったが)学校を卒業した時点で、企業に雇用される労働者となる。職場では、企業で一人前に仕事ができるようになるまで、OJT(オンザジョブトレーニング)を通して仕事を学んでいく。実際には議事録を書いたり、報告書のためのデータ収集をしたり、会議資料を印刷し必要部数を揃えたりとどの仕事も雑務であるが、そうした雑務から始めて、仕事全体を把握していく。
私が問題だと思うのは、こうした一連の教育プロセスが人工知能/AIの登場で維持できなくなってしまうのではないかという懸念である。
確かに単純作業や煩雑な作業は人工知能に任せた方が、正確かつ、早い時間で業務をこなしてくれるだろう。だが、人工知能に指示を与える人間が高度な業務知識を持っている、適切に指示が出せるという前提がそこには存在する。
これまでの世の中では就職できること、社会人になれることが、いわば学校教育の目的であったと思う。今まではそれで良かったかもしれないが、今後はそれで良いのだろうか。
人生が仕事中心でなくなる時代に、新しい価値観を
仮に多くの分野で人工知能による仕事の代替が行われた場合に、私達はどうすべきなのだろうか?
これまでは社会人になると、本人が望む望まないに関係なく、仕事中心の生活を送らねばならなかった。毎朝、満員電車に揺られて通勤し、夜まで働くその代償に毎月給与、そして年数回の賞与を貰い、ある一定の年齢になると結婚をし、家庭を持つ。子どもができても、男性の場合には仕事が忙しかれば残業を厭わず、女性であればキャリアを捨てて、家事や育児に専念せねばならない選択を迫られた。
しかし、今後は組織に所属し、労働者として高い評価を受けることが果たして幸せなことだろうか?多様性、ダイバーシティという言葉が流行している通り、今後ますます幸せの定義は多様化していくと思う。これからの時代は、必ずしも仕事中心の働き方をしなくてもよいのではないか、そう思う。多くの人が人生のステージに合わせた働き方ができるかもしれないのではないか、そんな明い未来をもたらしてくれる可能性を秘めていると私は願いたい。





人工知能による労働が一般化された時代に、ふさわしい教育を考えることはとても重要だと思います。